そこに、姿は無かった。
街路樹にも、しゃれたオープンカフェの周りにも、ツバキの植え込みにも。電線にも、建物の屋上にも。
冬の東京都心、有楽町、池袋、新宿、品川。大阪梅田、本町、天王寺。雪が舞う本格的な寒さの中、どこからこれだけの人達が湧いてきたのだろうという数の会社員達が各地で足早に行き交う。それに混じって三日間、各地で関係者と商談をしてきたのだが、終始殆ど姿を見なかった。そこに、鳥はいなかった。
鳥類は地球上至る所にいる生物群である。南極にも、高山にも。砂漠にも農地にも。川にも都市部にも海上にも。人間が生命を維持するのはとても困難という極寒の地にも、全てが燃え上がるような酷暑の地にもいる。そんな地球全土に分布する鳥類をもってしても、生息できない状況というのは一体どんな恐ろしい環境なのだ。それははたして人間が居てもよい世界なのだろうか。食べ物になる昆虫や草花も、巣をかける枝もないのだろう。この状態は、環境問題を告発した最初の本と言われるレイチェルカーソン著の「沈黙の春」の有名な一説を思い出さずにはいられなかった。
「春になると小鳥たちの鳴き声が聞こえ、
野原には花が一面に咲いている…はずだった。
今では小鳥の歌声も聞くことができない。
美しい花を見ることもできない。
春にもかかわらず
春はただ沈黙を続けるだけである。」
一見整然とした近代的で美しい大都市は、何かとても恐ろしいものを内包している気がしてならなかった。日本各地から沸き上がっている、「鳥がいなくなってきた」という声。そして、駅のホームに淡々と流れている小鳥の声のテープ(あれは一体なんだというのだろう)。両者を並べて考えた時、雪が舞う気温以上に急に全身に寒気を感じた。
先日、燃油サーチャージまで入れると一人50万円にもなるバードウォッチングツアーを企画/募集した。6日間のものとしては世界一高い旅行の一つだと思う。自分で企画しておきながら、こんなの催行される事はあるまいと油断していたら満席になってしまった。やはり日本では、何かが壊れてきている。
ケアンズ空港到着ロビーを抜けると、シマコキンが巣材を運び、メガネコウライウグイスがさえずり、ハチクイが滑空していた。どちらを向いても視野の中に必ず生き物がいる。それを見て心がようやく融解した。いつもは野鳥グループの方々をケアンズ空港へ迎えにいき、皆が一斉にカメラや双眼鏡を嬉々としてこうした普通種へ向けるのを「この辺の鳥はこれから数日間いくらでも撮れますから、とりあえずバスに乗って下さい」と毎回制しているのだが、今後はその時間も巧く使ってよいメッセージを伝えられるようにしよう。
ようこそ楽園へ、と。
小鳥のテープは目の不自由な人に階段の場所を教えるの
雑音の中でも聞き取れるんだって。
最初、鳥がこんな場所に巣を造っているのかと思って、マジ心配しちゃった。
ケアンズにいってびっくりするのは
鳥の声がすること。ほんと感動するよ。
海風や景色と共に、鳥の声がここちよいのよ。その場に身をおくのが気持ちいい。
夕方にけんけん飛んでくる五色ちゃんの声も嬉しい。
道路の動物の死体の多さににビックリしてたら、willieさんは
当たり前で気になってなかって言ってたけど
それの逆バージョンだね(w
鳥の声がしなすぎてビックリ、は(w
巷ぢゃ低山ハイキングがブームなんだけどさ
あっしもたまに山歩きして思うのはさ、みんな目に入る景色には意識がいくけど
鳥の声には気がつかない人が多いみたい。
高尾山なんか、殆ど山歩きって風体やノリぢゃない人ばかり
ファミレスで話せよって話をしながら登ってる
まぁ、それも、憂さ晴らし、好きな休日の楽しみ方なのかもしれないけどーー
浮世の垢まみれの話を声高にするから
鳥の声がかきけされて、あたしゃ、腹たつよ。
GWの高尾山、1日だけで40万人登ったって。
登山道、ラッシュ時の駅のホーム並みだよ。
自然にふれにいって人まみれって、ちょっとどうよ、って思う(w
生き物が視界にいない、声がしないという世界は怖いよ。
それは壮大なジオラマの中にいるようだ。
世の中の人の多くはしゃべり過ぎで一時間と黙っていられない。そしてそれが感受性の妨げになっている
私、鳥のご飯まいてます。
わずかに残されていた草原が、どんどん、パーキングに、変わります。
「鳥や猫に餌をあたえないでください」の立て札がいっぱい立ってる都会のマンション群の中に住んでいます。猫の避妊手術をし、夜中にご飯あげ、空き地に鳥の餌をまき。
警官がトラブルになると言い、名前を尋ねられます。
分かっています。
でも、みんな、一生懸命いきてるんだけど。
家の回り、朝には、鳥のさえずり、すごくします。家の狭いベランダは、冬には、砂糖水のみに、メジロやウグイスやヒヨやらが来ます。(砂糖水以外はすずめやはとが来ておこられます)
私は、町の雀たちにも、生き延びてほしいのです。