日本とオーストラリアが徹底して対立している捕鯨に関しては、オーストラリアに在住する日本人として、動物関係の仕事をしている身として何か書かないとといけないなと思っているうちに結構時間が経ってしまった。
先日、ニュースで「オーストラリアで増え過ぎたカンガルー500頭を一斉駆除」という報道があり改めてこの問題について考えされられる。当然、各方面から「クジラはダメだがカンガルーなら殺しても問題は無いのか?しかも食べもしないのに?」という抗議が集まり計画は中止された。
国有地での野生動物の駆除はこのカンガルーだけではないだろうに、何故かニュースになった為にこんなことに。そうなんですよね、オーストラリアは別に生類哀れみの令を施行しているような国ではない。駆除もするし、野生動物に対して去勢手術もするし、森林だって破壊する。その中で、この動物は殺していいけどこの動物はダメだ、というのはかなり理論としては無理がある。
逆に、クジラを取って食べて何がいけないのか?という人に、じゃぁ「きゅっきゅ!」と鳴いているイルカを捕まえて切り裂いて食べるか?と尋ねればかなりの割合の人がトーンダウンすると思う。馬はどうなんでしょう。犬や猫は?オウムは?「全部ダメです、生き物は全く食べません」という完全なベジタリアンだっています。
結局、それぞれの立場のそれぞれの思い入れに過ぎないわけです。「?が好き」「?は大事」といった思い入れというのは論理的に成立したり証明したり正しい正しくないを裁定できるものではないから、違う立場の人が何度熱く説かれても「はぁ?」となって何も進まない。
他の動物ならいいけどクジラの殺傷は認めないというオーストラリア等の国と、「その理論が分からない」という日本との溝はどうやったって埋まらないのでは。思い入れですから。
また、捕鯨が日本から遠く離れた場所(オーストラリア近海)で行なわれている事も火種の原因なのでしょうね。いくら、法律的には問題なくても。もし、捕鯨が瀬戸内海や東京湾、はたまた琵琶湖(いないけど)など国内で行なわれていたら別にこれほどの問題にはなっていないと思いませんか。想像してみて下さい。
そう考えると、「愛着」に加えて「場所」もファクターになるわけで。
ここでやるんだったら問題ないけどこっちでやってはダメ、というのはもはや保護でも真理でもなんでもなくただの感情の問題となる。私は両者に「理解されない事をまず理解しろ」と言いたい。
なお過激派シーシェパードはオーストラリア付近で活動もしているけど完全にアメリカの団体で資金もアメリカを中心に、団体としてもアメリカの立法の元に成り立っているのに、なぜオーストラリアばかりに日本の方々の批判や抗議が集中するのか?アメリカには逆らえないから?怖いから?
それこそ非ロジカルな行動では無いでしょうか。
お久しぶりです。
食物アレルギーの観点からは、
牛関係が特にキツイ私としては、
鯨を食べることも視野に入れて
「食べられる物」を探してきました。
投薬されている家畜たちと違って、
鯨は化学物質過敏症の観点からも
「食べられる物」としての期待は高いです。
欧米ではピーナツのアレルギーが多いようですが、日本人は逆に大豆のアレルギーが多い傾向にありますので、たんぱく源を求めようとすると、どうしても鯨に期待が。
私は昔に少し口にした記憶があるだけで味もおぼろげ、すごく食べたいというわけではないのですが、痩せてくるとちょっと食べてみたくなります。
「食べられる物」がたくさんある方たちにとっては、鯨はかわいそうなだけの対象なのかなぁと思いました。
この飽食の時代に飢えているなんて、「食べられる物」がなくて痩せていくなんて、きっと創造の域を超えているのでしょうね…
無理やり復学したのですけど、倒れるし頭まわらないし空腹だし痩せてくるし色々パニックですー(><)
>もし、捕鯨が瀬戸内海や東京湾、はたまた琵琶湖(いないけど)など国内で行なわれていたら別にこれほどの問題にはなっていないと思いませんか。想像してみて下さい。
関係ないですよ。
反捕鯨国のほとんどは日本近海の捕鯨にも強硬に反対しています。
日本の調査捕鯨反対派は沿岸捕鯨だけなら認められるとかお花畑な主張していますが、完全な出鱈目であり、しかもオーストラリアは最も強硬な反捕鯨国で先住民捕鯨以外は一切認めません。
国際捕鯨取締条約も変えろと主張しています。
条約に同意できないなら脱退すべきでしょうに。