Site icon 【公式】オーストラリア唯一の日本語専門バードウォッチングガイド 太田祐(AAK Nature Watch)

コシジロインコのアサヒとお別れ

アサヒ11歳すでに一部のお世話になった人々には伝えている通り、インコのアサヒが大晦日の夜に天国へ飛び立って行きました。このブログは元々は今のような商用のものではなく私の個人的な内容を書いていたもので、古くからのアサヒのファンの方々も多少おり、区切りをつけることは必要かなと思いました。(写真は亡くなる20日ほど前のアサヒ)

アサヒはとても活発で陽気な面とは裏腹に、生後何年かで飛ぶことをほぼやめ、いくつかの大きな怪我もし、この1−2年は病名もわからないような体調不良のデパートのような状態になっていてある程度の覚悟はずっとできていました。コシジロインコとしての平均寿命の半分も生かしてあげられれなかったことや、私がとても留守がちで最後の数日も看取ってやれなかったことには強い罪悪感を覚えています。


(←0歳のアサヒ)元々は私がまだ結婚しており、会社勤めをしている時に近所のショップからお迎えした子でした。当時は勤務先との折り合いが悪く精神科に通院するような鬱状態だった私を大いに励まし、笑わせ、叱ってくれたのは小さなアサヒでした。結局見切り発車の形で独立起業し、生活は苦しくなりましたが他に道はありませんでした。アサヒも当時は健康でやんちゃで、可愛くておびただしい量の写真や動画を撮ったものです。この頃がアサヒは一番幸せだったかもしれません。


(←2歳頃のアサヒ)野鳥ガイド業が成長するにつれ、私は年間100日→125日→150日と自宅外で泊まることが激増し、同時進行で離婚もしたことにより、アサヒの食事の世話さえままならなくなってきました。それでも何人かの親切な友人たちや獣医さんのおかげで乗り越えることができていました。別れた妻が「アサヒの面倒は今後も手伝う」という約束をごく短期間しか守らなかったこともあり、この頃は何日かおきにアサヒのカゴを車に積んであっちへ預けに行ったりそっちへ受け取りに行ったり走り回って頭を下げていたのを思い出します。コスタリカやカンボジアなどまで広がった仕事範囲とあまりの忙しさに「この子さえいなければ自由だったのに」と酷いことも何度か思ったりしたのもこの頃です。

(5歳ごろのアサヒ)2年半ほど前にケアンズ市内のマンション住まいを卒業し、自然豊かなアサートン高原マランダに移住しました。私は相変わらず多忙でしたがリノベーションに集中するためコスタリカやカンボジアでの仕事を辞退し、また新しいパートナーに恵まれアサヒはようやく安定した毎日を取り戻したと思います。ただこの頃からアサヒは体重の減少や食欲不振、時には嘔吐や吐血など様々な理由で通院することが増えてきました。病院も、先生も何度か変わりいろいろなところで診てもらいX線検査、血液検査なども10回くらいやりました。費やした医療費も通算する2万ドルに迫る額になりました。しかししばらく元気になることはあっても結局病名もわからず、12月26日頃から急に衰弱して大晦日の夜に入院先から天国へ飛んでいったということです。


(←写真は最後のツーショット)11歳と4ヶ月あまりの一生でした。最後の数日を一緒に過ごせなかったことや、自宅ではなく病室で寂しく息を引き取らせてしまったことは激しく後悔しています。でもアサヒは決して私にべったり懐いていたインコではなく、どの時代においても結構クールでした。そんなあの子が私がいつまでもメソメソしているのを望むとは思えません。「私に構わず、パパのやりたいことをやってね」といつも大きな瞳をキラキラさせて応援してくれていたと思っています。だからアサヒに心配をかけないようにこれからは一層自分の信じた道をまっすぐ進もうと思います。平均寿命なんて意味のない数字で、すぐ死んでも後悔しないよう生きてねとアサヒに言われている気がします。


私もいずれそっちの世界へ行くから、少し待っててね、アサヒ。大好きだよ。

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