二日目はローンヒル国立公園が依然として閉鎖されている影響でグレゴリーからドマジーを経由して一気にヘルズゲートロードハウスまで行った。ヒメモリツバメ、オナガキンセイチョウ、キバシキンセイチョウ、オジロオウギヒタキやワキアカヒタキ、アカエリゴシキセイガイインコやヒメクイナなどの収穫はあったもののジョーカーのコキンチョウを外したので達成感はない。元々ツアー宣伝文にもリストにも載っていないような相手なので気にすることはないのだけど、ローンヒル国立公園に行けないというアクシデントをひっくり返せるような大物はコキンチョウしかいないので見せたかった。
ローンヒル国立公園が閉じている影響は翌日にも及び、あまり探鳥地とは言えないバークタウンで終日を過ごさなければならなかった。アカエリツミ(写真)やキバラメジロの群れで何とか時間を繋いでいたら
宿の脇のちょっとした茂みが大フィーバーを起こした。30分くらい右も左も野鳥という状態。モリツバメ2種の群れが入り
クチシロミツスイや
ハジロナキサンショウクイ、ヒジリショウビン、
キイロコバシミツスイやマミジロテリカッコウ、そしてクィーンズランド州では超絶難しいキンイロモズヒタキまで出た。
周辺の氾濫原ではオオヅルやアシナガツバメチドリ、ウスユキチュウヒ、オナガイヌワシやシロハラウミワシがよく見られこの一番難しい1日をどうにか乗り切った。
翌日は大半が移動日ということでもう一人のガイドがこの日くらいは先導してくれるというので私は少し気楽に二号車としてついていくことができた。途中で「バーク&ウィルズ探検隊のキャンプ地119番に寄ろう」というけど、あんな看板が1ー2枚あるだけの空き地に行ってどうするんだ、と思ったら実はキャンプ119番はバーク&ウィルズ探検隊の最北端キャンプであり、ここを最後に探検隊はとりあえずオーストラリア縦断を達成したとしてUターンを開始したという重要な場所だと知った。また私が訪問したことがあるのはそのキャンプ跡地の手前の方だけで、実はもっと奥にいろいろな解説看板や探検隊が目印を刻んだ木が何本も現存していた。これは驚いた。
なおなんの話が全然わからない人はこの本を読んでほしい。バーク&ウィルズ探検隊は開拓時代に何もかも未知だった内陸部を突っ切ってオーストラリアを縦断し情報を集めることを目的にビクトリア州が多額の予算を組んで編成した大探検隊であり、普通にやっていれば失敗しそうにない万全の予算と人員を集めた公共事業としての探検。しかし探検隊のNo.3が率いた後方支援隊が職務放棄した結果、3ヶ月待ち続けた前進キャンプ隊が支えきれず死者も出し始め撤退、結果として取り残されたアタック隊がほぼ全滅するという悲劇で終わる。アタック隊は前進キャンプ隊が3ヶ月待ち続けたものの断念して撤収したその日の晩に息も絶え絶えに戻ってきており、このたった何時間かのすれ違いはオーストラリアの歴史上世紀のすれ違いとして絵画などに描かれている。最大の敗因は隊長が素人だったことであり、その隊長が現地採用したNo.3が裏切ったことだろう。
当時の探検隊は場所を記録するために周辺の複数の木の皮を斧で剥いでそこに何か記号を刻み込んで道標とした。その頃から150年以上経っているので大半のそうした木々は現存していないのだけど
これはバーク&ウィルズ探検隊が残した道標として1900年ごろのモノクロ写真などから確認されている木。こんなものがまだ立っているとは
この木もそう。1860年ごろ、バーク&ウィルズ探検隊が満身創痍の状態でこの最北端キャンプを設営しその記録としてこの木に道標を斧で刻んだ。その同じ木に165年の歳月を経て今自分が触れていることに感動した。人間の一生など紙屑のように一瞬だ。
彼らは後方支援隊の職務放棄によりここからの帰路に塗炭の苦しみの果てに栄養失調により一人を残し全員が死亡した。合掌。