ケアンズが10月としては記録的な温度、34度をマークしたその日。
そんな日は涼しい図書館で文献でも読んでいればいいのだが、運が悪い事に私は内陸乾燥帯にて野宿をしながら二日間バードウォッチングの下見に来ていた。手元の温度計は41度を示し、日差しの激烈さを加味すれば45度あるんじゃないかという乾ききった土地。強力な日焼け止めを2時間おきに塗り直していけばちゃんと一日で真っ黒に焼けます、という防ぎようの無いレベルの日光が全ての生物や草木を襲った。オーストラリアの生物に夜行性のものが多い理由が分かる気がする。この日差しの中で補食したり補食されない為に全力運動を続ければ大きなエネルギーを消耗する。大陸中央部ではなおの事だ。
それでも日没まで生き延び観察を続け、ケアンズへ向けて長駆戻り始めた。調査は大成功だったとは言わないがそれなりの手応えはあり、次のステージを考えながらひたすら走った。しばらくすると地平線付近が白じみ始め、漫画のような巨大な満月が上がってきた。分水嶺山脈以西はこの10年で最悪の乾燥と言われる現在、星や月の明かりは大気中の水分に拡散される事無く地面に到達する。周囲の灯りゼロ。湿気ゼロ。夜なのに思わずサングラスを探しかけてしまった程まぶしい月が少しずつ夜空へ登っていった。
サンルーフを開けて誰もいないハイウェイを走り続けた。いいではないか。
眠れ 良い子よ
庭や牧場に
鳥も羊も みんな眠れば
月は窓から 銀の光を
そそぐこの夜
眠れ 良い子よ 眠れや
(モーツアルトの子守唄)
モーツアルトの子守唄と違うのは、オーストラリアでは夜間は動物が眠っておらず元気いっぱいだと言う所だ。日中死にかけていた動物達が続々と活動を開始し、カンガルーや牛の群れが普通に道端をうろうろしている。多くのレンタカー会社が日没後の内陸部での走行を禁じている通り、道路への飛び込みは何度も繰り返され危険きわまりない。特に牛の皆さんには遠慮していただきたい。エミューさんも。速度を落とし走って行く他は無い。
この夜、恐らく私はオーストラリアの誰よりも大量の月光を浴びた。満月の夜は人間の行動に普段には無い影響を与えると言う話がある。7時間以上夜道をほぼノンストップ運転しても不思議とそれほど疲労を感じなかったのは月光の所為かも知れなかった。一台の車も見かけず、今自分の周辺300km四方で外にいるのは私だけだろうと言う確信があった。月は一面の原野を銀色に照らし、彼方では山火事が丘陵を真っ赤に焼き尽くしていた。全ては、この世のものとは思えない壮大な眺めに思えた。この景色は人間としてはただ、私一人の為だけにあった。震えた。
この号が出る頃には7月に続きアウトバックの本場、ノーザンテリトリーに仕事で行っているかもしれない。ダーウィンからアデレードへ大陸中央を縦断。気温はこの時期50度に達する可能性もある。これはバードウォッチングの仕事ではないのだが、「オフロード走行ができて気温50度やテント生活も問題ない人」と言う事で声がかかった。その後もシドニー、世界遺産の孤島ロードハウ島。年末は毎年恒例のケアンズ周辺を巡るツアーがあり年明けは多分タスマニアやパースが続く。気候も鳥の分布も州も時差も、もうぐっちゃぐちゃだ。日本では「引き蘢り」なるものが問題になっているらしいが、私はその対極の「飛び出しっぱなし」である。まぁどちらも困ったものだ。